アリとキリギリス

id:chillpoyoが書いたアリとキリギリスが秀逸だったので、僕も同じタイトルのエントリーを書こうと思う。(彼のような文才はありません。悪しからず)

僕は「あなたはアリですかキリギリスですか」と尋ねられたら、「アリを目指しているイモムシです」と答えるだろう。アリのように勤勉になりたいと思いながらも、心の弱さが露呈していまい、アリのようにはスタコラと進むことができない。イモムシぐらいのスピード感が今の実態だと思う。

僕は両親が年をとってから生まれた子供だったので、同世代の子供たちとは少し違った価値観の元、育てられた。端的に言うと、真面目なことは良いことで、くそがつくほど真面目であれということだ。


昭和一桁生まれの人間というのは、戦争というとてつもない出来事のおかげで、ある種画一的な価値観を共有していたのだと思う。親方日の丸的な絶対的な正義があり、正義のためにどれだけ自らを犠牲に出来るかが、その個人の価値という考え方だ。


そんな父に育てられた僕は、今でも絶対的な正義を目指して生きようとしているのかもしれない。ただ、一方では、大人になってきて少しずつ世の中のことも見えてきて、絶対的な正義を見つけることがどれだけ難しいことなのかもわかったきた。マスメディアは何かしらのバイアスがかかっていて、日経新聞でさえも偏った情報を発信しているようだ。そのような中、世の中を知れば知るほど、すなわち大人になればなるほど歪んだ価値観を身につけているのではないか。だとすると、年を重ねる意義はどこにあるのだろうか。絶対的な正義なんて、本当にあるのだろうか。



そんなことを悩みながら昨年転職した。この一年は禊の年だった。管理系という歪みやすい職種において、賢くなったつもりで実は歪んでいた価値観のコリをほぐすのが、僕が一年かけてやってきたことだった。

最近正しいことを正しいと判断する能力が戻ってきた感じ(文字通り感じがしている)がしていて、心が解きほぐされてきている気がする。

思ったことを思った通りに発信する力。価値観という色眼鏡を通さずに物事の本質を見る力。誰が正しいかではなく、何が正しいかを聴く力。こういう力が大事なんだとやっと思い出したきた。そう思い出してきたのだ。

小さい頃に父や母が言っていたこと。「弱いものをいじめてはいけない」「何かをしてもらったらその恩を忘れてはいけない」「挨拶は大きい声でする」「人と話をするときは相手の目を見る」……こういうところに生きて行くために必要なことを教わっていたのだった。



父親は亡くなり、母は寝たきりになった。もう少しこんな話をしたかったなと思った秋の夜であった。